神保町ラプソディ

 

侯孝賢が監督した『珈琲時光』という映画がある。小津安二郎生誕100周年を記念して、『東京物語』にオマージュを捧げ作られた1本である。東京の街で暮らす若い女性とその友人たち、地方で暮らす女性の両親の生活が淡々と描かれていく。2000年代・東京の街の姿が映像の中にはある。
一青窈演じる女性は浅野忠信演じる、古書店で働く男性をよく訪ねる。そしてその古書店がある場所こそ神田神保町なのである。古書店員・浅野忠信の仲間の萩原聖人は天ぷら「いもや」で働いているし、一青窈は喫茶店「エリカ」で休息を取っている。神保町をよく訪れる方は知っているかもしれないが、その「いもや」も「エリカ」も今はもうない。「いもや」は2018年に閉店し、「エリカ」も2019年に閉店してしまった。

 

「君がいないことは 君がいることだな」と歌ったのはサニーデイ・サービスの曽我部恵一であるが、不在の対象を思うたびに私はこの『桜 super love』の歌詞を思い出す。生理学的には私は確かに生きているのかもしれないけれど、人間の命というものは本来的には生と死の間をゆらめく類いのものであると思う。生に振り切れる瞬間もあれば、死に近接する瞬間も生命にはある。そんな人間の命と同様にして、事物もまた常に在と不在の間にあるのではないのだろうか。既にない何かを思い出すとき、思い出された何かは確かに”ある”のだ。いなくなってしまった君を思い出すときに君は確かに”いる”ことになるし、『珈琲時光』を観て、「エリカ」や「いもや」のことを思うとき、それらは確かに”ある”ことになるのだ。その反対に、実体としては存在しているのに忘却されていったものたちは、”ない”ことと同義になるのだろう。

 

生と死をゆらめく人間が生きる世界はあまりに不確かなことが多くて、突然日常を侵食する裂け目のようなものに私たちは常に脅かされている。失うことがすなわちそのまま永遠の不在を意味するのだとしたら、悲しすぎてやってゆけないとさえ思う。だけれど、事物もまたゆらめいていて不在は在へと繋がっている。だから私たちはたぶんこれからも大丈夫。曖昧な私にはいったい何が大丈夫なのか、具代的に指し示すことはできないのだけれど、とにかく大丈夫なのだ。そしてこれは祈りでもある。

 

『珈琲時光』の終盤には、御茶ノ水・聖橋の立体交差が映し出される。中央線、中央・総武線に丸の内線が交差していくこの景色は壮観である。「エリカ」も「いもや」ももうないけれど、聖橋の立体交差は今も存在していて、それは変わらず美しいままである。私はその美しさがいつまでもあってほしい、と思いながらも、その景色がいつ失われても大丈夫でいるために、実体として存在しているうちにきちんと眼で見て覚えておきたいと思う。

会いたい人には会えるうちに、行きたい場所には行けるうちに。使い古された言葉をわざわざ言うのは恥ずかしいけれど、それでもやはりこの言葉は確かな事実であると思う。ダサさや恥を乗り越えてでも、言わなくてはならぬ言葉はある。不在は在に繋がってはいるが、私がいくら願っても「いもや」で天ぷらを食べることも「エリカ」で珈琲を飲むことももう叶うことはない。素通りしてしまった愛へのわずかな後悔を思うとき、愛は慎重に掬い上げなければならないものだと知ったのだ。

 

あらゆる街にはたくさんの愛が眠っていて、それはもちろん神保町の街にも。会いたい人と会えるうちに、行きたいところに行けるうちに。愛を掬い上げるように、街を歩いていくのもいいのではないかと思う。

 

トロワバグが誰かの”行きたいところ”でありつづけられますように。そんなことを時々考えながら働いています。オンラインショップでは珈琲豆やマスタードなどの通販も行っております。どうぞご利用ください。

 

学生スタッフ 川窪

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