夏と追憶、喫茶店

                                                      

トロワバグは地下にあるので入り口のドアにはいつも地上から陽の光がわずかに差し込んで風に吹かれてゆらゆらと揺れています。私はカウンターに立って、その光が動くのを眺めるのが好きで、近頃はその光の白と影の黒が強くなっていくのを見ながら夏が近づいてくるのをぼんやりと感じています。

 

私は夏が苦手で、幼い時から夏休みがあまり好きではありませんでした。テンプレートのように鳴く蝉の声も、行きたくもないラジオ体操も、騒々しい夏まつりもどこか鬱陶しく、すべてが胡散臭い。中学三年生の夏も、暑い日差しからエスケープして市立図書館に通う日々が続いていました。そんな時に手に取ったのが、池田晶子『暮らしの哲学』という随想集でした。本は春、夏、秋、冬と章立てがなされていて、それぞれの季節にまつわる随想が論理とその論理が霞むほど瑞々しい感性によって綴られています。私はなんとなく夏の章を開いて、「夏休みは輝く」という文章を読みました。そこには、子供は回帰として思い出されるほどの記憶を持たないため、死へと向かって流れる時間を持たない、「現在」しかない。そんな子供が、生命が生命として頂点を迎える季節である夏に長い休みを持てばその時間が濃密な時間として止まって感じられるのは当然であろう、というようなことが書かれていました。“子供”当事者であった私はその文章がどうにもピンとこず、自分自身の夏休みの輝かなさをただ思うばかりでした。

 

ところが20歳を超え、カウンターから陽の光が揺れるのを見ている時にふとこの「夏休みは輝く」という文章を思い出す瞬間があったのです。以前に読んだ文章を、暖かみを持って思い出すことが出来る程度には成長した私が、もう一度あの本を読んだらどのように感じるのだろう、ということが気になりました。購入した本の表紙はすべすべとしていて、色合いの異なる空の写真が4枚、すっきりと並べられています。そこには死へと流れる時間を生きている大人は「去年今年」という感慨に代表されるように、去年の夏、今年の夏という回帰する季節に記憶を重ねることで人生の一回性を確認しているのだ、と綴られ、さらにそんな大人は“人生の原点でもあり、頂点でもある子供の頃の無時間の夏を記憶の核として、流れ始めた時間の中でそこに立ち戻り、あれらの無垢を超えることはもう人生にはありえないのだという事実に今さらながら驚くのだ”と文章が閉じられていました。記憶には残っていなかったこの文章を読んだとき、私は当事者のうちは輝いていないと思っていたあの夏休みの輝きを発見してしまったようで、まさに大きく驚いてしまいました。それはつまり私があの時ほど無垢ではなくなってしまった、という悲しいことでもあるのです。しかし次の瞬間に、いくつかの過ぎた夏の記憶とともにこれからやってくるはずの夏を以前よりもっと上手に愛していくことができるのならば、この悲しみもそんなに悪いものではないのではないか、と思いました。

 

1980年に発売され、「キリンオレンジ」のCMソングにもなった太田裕美の『南風』という曲があります。網倉一也によって作詞作曲されたこの曲にはこんな一節があります。

“From The Down Town

目に留まったポスターに去年の夏

ダブらせてしまう

ああ今年もまた逢いたい“

“From the Radio

このメロディー

去年の夏のヒットソング

小麦色の肌が 今甦る逢いたい“

 

やはり夏には人を追憶へと誘う不思議な力があるようです。80年代のCMソングらしく、キャッチ―で軽快なメロディーに乗せられて、サビでは“君は光のオレンジ・ギャル”と歌われます。春を引き延ばすようにいつまでも長袖を着てしまう私ですが、今年の夏は“オレンジ・ギャル”を目指して少しだけ元気を出してみようと思っているところです。トロワバグはお盆休みにも休まず営業しています。夏が好きな方も苦手な方もキリっと苦いアイスコーヒーを飲みながら、地上から差し込むゆらゆらと揺れる光を眺めてみてはいかがでしょうか。

 

学生スタッフ 川窪

 

About the author: troisbagues